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<人物>
鈴木 一成(すずき かずなり、1974年1月15日 - 2011年5月26日)は、千葉県市原市出身のラグビープレーヤー。
県立千葉南高校ラグビー部出身。当時のポジションはフッカー(No.2)。バイスキャプテン。
身長はやや小柄(170cm程度)ながら、骨太の肉体を活かし身体を張ったプレーを得意とした。
大学入学後は専修大学ラグビー愛好会に所属し、主にフランカー(No.7)として活躍。激しいタックルと球際の強さでチームを牽引し続けた。
身体を張るプレーが得意なのはラグビーだけではなく、様々な宴会のシーンでも身体を張り続けた。
上級生から注がれる酒を嫌がる顔ひとつ見せずに次から次へと飲み倒し、宴席で披露する水泳スタイルでの芸はカズの代名詞ともなった。
←こんな感じ
専大の宴会で頻繁に使った、向ヶ丘遊園の「永花」では超大盛りカツ丼「モンブラン」、狛江(実は喜多見)の「栄華」では、ラーメンどんぶりすり切りいっぱい入った肉豆腐(マーボー豆腐)定食を強制的に注文され、嬉しさのあまり涙を流しながら笑顔でご飯一粒も残さず食べてた姿を思い出す。
ピッチ内外で常に中心人物であり続け、年代を問わず誰からも愛される存在であった。
<性格>
かなりの凝り性であることで有名。
例えば、総合格闘技は観戦に留まらず、技術書や映像で研究を重ねて自ら実践もしていた。
練習台として「生贄」となった同期愛好会員も数名いたが、皆異口同音に、その破壊力に舌を巻いている。
なお、主な生贄としては梶井基亀氏などが知られている。
大学時代に始めたスキーにもどっぷりと浸かった。
マイカーに4WDワゴン(GRAND LEGACY)を選んだのはスキー場への足として。ゲレンデに行けば休む時間も惜しんで滑り続けたようである。
社会人になってからはトライアスロンを始める。
道具も本格仕様で、自慢のバイクが斎場のロビーにも飾られていたのは周知の通りである。
一方で、グラビアアイドル好き であることも周知の事実であり、芸能人で誰が好き?と聞いたところ、全くわからないマイナーなグラビアアイドルを何名も答えていた。
<女性関係>
仲間の誰もが心配しながら口に出来なかったことが女性関係。
亡くなるまで独身を貫いたが、その間、何らかの約束を交わした女性や想いを寄せる女性、これから発展する可能性のあった女性等の存在があったかどうかは、最後までベールに包まれたまま。
今となってはそれを知る術もない。
天国で素晴らしい女性と巡り会っていることを願うばかりである。
<高校時代・それ以前>
1989年(平成元年)千葉県立千葉南高校入学。
ラグビー部に所属、副キャプテン ポジションはフッカー。
3年時、赤組応援団長を務める。
文化祭の投票で、なぜかミスター体育会系1位になるが足は遅い。
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<大学時代>
大学一年の終わり、その春専大学を卒業する千葉南高校の先輩である斎田英幸氏の後釜として、千葉県市原市から向ヶ丘遊園の「小野寺荘」へ移住。
近所には坪暁史氏・原田番長氏・新山欣吾氏なども住んでいた。
同じく千葉南高校の先輩、島田健氏(現:藤倉健氏)から巨大な鍋を引き継ぎ、小野寺荘では鍋パーティーやパスタパーティーなどがしばしば開かれた。
時には朝早く起き、食材がこびりついた鍋を文句をいいながら洗う姿が目撃されている。
←こんな鍋
一成宅には女性が上がり込んだこともある。一成宅にあがった女性の中には元テレビ朝日アナウンサーで、現在はウッチャンの奥さんでもある徳永有美さんもいた。
合コンにはたまに参加。
カラオケボックスにて意気投合したお相手の事情により、一時は「ケチャ成(けちゃなり)」というニックネームもつけられた。
さらにその相手女性がイノキ系のアゴをしていたため、小杉徳三氏になぞらえ徳子と呼ばれていた。
後にケチャ成、徳子は会うことはなかったという。
そんな中でも、ある女性と一夜を共にしたこともあった。
レンタルビデオで一緒に見る映画を借り帰宅。
そのままの流れでと思われていたが、選んだ映画がクールランニングだったためムードもつくれず相手は就寝。
結果的に悶々とした夜を一人ですごし朝までストリートファイター2(ゲーム)をやっていた。
合コンには時折参加していたが、実は同じ配膳アルバイトの女性に好意を抱いていたのは知られていないエピソードである。
<狛江時代〜狛江ボンバーズ>
大学四年時に狛江市に引っ越し。
専大愛好会で代々引き継がれる派閥「狛江ボンバーズ」を踏襲。
元祖狛江ボンバーズは、久保田氏と幹太氏を中心に、愛好会メンバーの中で狛江地区住民による野球チームとして誕生。
久保田氏他(久保田氏の先輩方も後に入会)→島田健氏(現:藤倉健氏)→渡辺淳一郎氏と継承。
当代に至り、渡辺淳一郎氏、川口研二氏と共に狛江ボンバーズ1997を結成。後に清水等氏・安倍仁氏・大谷利康氏も参加。
愛好会での一大勢力を形成。
しかし何かに影響力は持っていない派閥で二年後に自然解散。
〜エピソード〜
大学四年時には駅前の道路標識を半年かけてアスファルトから引っこ抜き最後は、やり投げのように投げて逃走したこともある。
←こんな標識を
このような、酒に酔った危険な行動(奇行)は数多く、当時 笠川剛史氏、川口研二氏がアルバイトをしていた、丸の内 ニュー・キャッスルでの宴会の後、千代田線二重橋前駅のホームに侵入し列車の運行を妨げたり、向ヶ丘遊園駅の吉野家で大盛りの肉の量でクレームをつけたりと、やりたい放題の時期もあった。
<社会人>
大学卒業後、翼システム株式会社に入社。
茨城担当営業になり、つくばに移住。
この時期は夜の街に繰り出し、歓楽街にはカズロードなる通りも存在したとか。
当時つくばに営業で時折訪れていた矢野幸治氏は、毎回すき家で牛丼と卵をテイクアウトし、カズ宅のドアの前やドアノブにかけたりして、帰宅する一成を驚かせていた。ちなみに、世に言うサプライズイベントとは、この行為に端を発していると言われている。
当然時間が立ちすぎていたので一度も箸をつけることはなかったが、しばらくこの差し入れ交流は続いた。
社会人になりゴルフを始めた一成は、持ち前の集中力ですぐに100をきる腕前に。ここでも道具へのこだわりなど、らしい一面を見せていた。
その後は千葉に戻り日々忙しい毎日を過ごしていた。
<優しさ、そして先輩思い、先輩藤倉氏との交友>
大腸か小腸のポリープ手術を終えて(時期不明)、フラッと藤倉商店【三代目当主が島田健氏(現:藤倉健氏)】に寄り、先輩である島田健氏(現:藤倉健氏)に、病院での肛門からの内視鏡検査を強烈に勧める。
この時カズナリ本人は検査即入院だった。
結果、島田健氏(現:藤倉健氏)が内視鏡検査を実施したかは、定かではない。
また、千葉勤務時、藤倉商店のイベント出店など精力的に手伝った。
「イベント出るから…」と連絡が入れば、後片付けなどを大汗かいて何度も手伝ったという逸話が残る。当然無償である。タダ働きをさせられていたという表現の方が、適切でもある。
なお、カズナリには島田健氏(現:藤倉健氏)に対する恩義があった。
同氏の後輩女性を紹介され、数回会ってたとの未確認情報がある。
そのための無償奉仕では?と懐疑的にみる輩もいる。
ちなみにその女性は首都圏を捨て、和歌山県へ農村留学している。
<その死>
2011年5月26日、脳梗塞のため突然の死去。37歳没。
5月23日夜仕事帰りに7月に出場するトライアスロンのトレーニングのため、スポーツジムでスイム中、プールから上がろうとして発作、転落。
救急車により病院に搬送され、緊急手術を実施。
彼らしい驚異的な回復で意識を取り戻し、5月25日には両親とも会話したそうだが(この時の会話で倒れた時の状況を話し、翌日には退院できるねと…)、夜になり容態が急変。
二度目の奇跡は起こらず、帰らぬ人に。
<死後>
2012年5月26日に高田馬場ノーサイドクラブにて、1周忌の集いを企画され、大学ラグビーチーム30名程度の仲間が参加予定。
故人への、仲間からのメッセージにもあるように、人を惹きつける優しさは、死後も多くの仲間を惹きつけている。
Written by DOTE & YANO
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